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シンプルで合理的な生活

桶狭間の戦いは今川対六角だったという空想で遊ぶ

※これから書くことは、あくまでも都合のいい解釈だけで構成した妄想という名のお遊びです。


最近では刀剣がらみでもずいぶんと有名になった名古屋市東区の徳川美術館だが、現在開催中(10日まで)の特別展「天下人の城」で、同緑区の長福寺所有の桶狭間合戦討死者書上が公開されている。

この徳美のツイッターにもあるが、この文書に、桶狭間の戦いでの戦死者のうち、272人が南近江の六角氏からの織田への援軍だったという記述がある。

これまでも織田と六角の同盟説は出ていたのだが、今回、新たにそれを裏付ける資料が公開されたことになる。

とはいうものの、六角と織田の同盟の記述がある書物は、内容どころか存在自体の信憑性すら疑われるレベルのもので、今回の文書にしても、まだ精査されていない資料の上、やはりいろいろと疑わしいところも多い。

そんな現状とはいえ、六角氏の援軍は当時の状況的にそれほどおかしくはないのではないか。

さらに、今川義元が自ら出陣してきたのは、六角義賢を意識してのものではなかったか。
つまり今川対六角(勢力下の織田)というのが桶狭間の戦いの大局だったのではないか。

そしてそれは前年に信長が上洛し足利義輝に謁見しているからで、この時点で義賢が兵を送り込んでいたのではないか。

と、そんな空想をしている。

2014-05-31 11.38.31

六角の事情

室町時代後期の六角氏の行動を追っていくと、彼らの行動原理は基本的に足利の守護大名としてのそれである。
近江国の守護として足利家の騒乱にも深く関わっており、六角義賢の父定頼は足利義晴の有力な後援者で、義輝の烏帽子親でもある。
定頼は織田信秀と同じ年に亡くなるが、後を継いだ息子の義賢が三好長慶と義輝との和議を成立させ、義輝と長慶との体制を確立させた立役者になる。

そんな義賢にとって、東に隣接する美濃を治めている一色氏を追い出した素性の分からぬ斎藤氏にはあまりいい感情を抱いていない。

六角氏が信長のことを本音ではどう考えていたかはわからない。
守護代といっても信長の弾正忠家と呼ばれる家は本家ではなく、下克上で成り上がった家だ。
ただ斎藤より氏素性ははっきりしている。

織田と斎藤が同盟を結んでいたのは道三が生きていた頃の一時期だけであり、六角氏の外交志向なら、その辺は敵の敵は味方と割り切っていてもおかしくはないだろう。

織田の事情

信長の方から見ると、父信秀の最盛期には西三河にまで手を伸ばしていたものの、その晩年にはかなり勢力を後退させていた。
代替わり後も、尾張国内は同族や守護の斯波氏との争いがあり、北の斎藤との同盟は道三の死後、消滅し敵対関係にある。
以前は今川との戦いで斎藤家の援軍が送られていたが、
さらに尾張の各地に今川の調略の手が伸びており、1555年には織田方の重要な拠点である津島の南も今川の勢力下に入り、かなり瀬戸際に追い詰められている。

そんな当時の力関係を考えると、南近江に加え伊賀にも勢力を伸ばし、幕府へも大きな影響を与えていた六角と織田では、同盟を結んだとしても、織田は六角の庇護に入るような形になったのではないか。
信長が1559年に上洛し足利義輝に謁見しているのは、六角を通じ、足利三好政権の勢力下に入ったことに他ならない。

となると、今川の尾張侵攻時に六角義賢が援軍を送っているのも、おそらく前もって話ができていたと考えられる。
というよりは、すでに織田単独では今川に対抗するのは難しかったのだろう。
6年前の村木砦の戦いでは、斎藤道三の援軍である安藤守就に那古野城を任せて出陣しているが、これは斎藤道三を信頼しているというよりも、そこまでしなければならないほど厳しい戦いだったとも言える。
当時よりもさらに難しい情勢だと考えると、上洛の目的は、対今川のための外交戦略だったのではないだろうか。

 

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また六角と織田の関係では、千田先生の以下のような指摘がある。

桶狭間合戦で「信長・六角」同盟が存在か : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

 「信長と六角氏との蜜月関係が、小牧山城築城まで続いていたとすると、なぜ信長が当時最新の技術だった石垣をスムーズに築けたのか、その謎も解けます」と千田さん。小牧山城にはそれまでの尾張にはなかった石垣が使われており、近江の石工集団「穴太あのう衆」の存在が指摘されてきたが、今回の書上がその裏付けとなる可能性が出てきたのだ。

 また、「小牧山城と岐阜城の石垣の積み方に違いがあって不思議に思っていました。その差は、六角氏との同盟が切れて、穴太衆の技術援助なしに、信長が独力で岐阜城の石垣を築いたためだったのかもしれません」と指摘する。

小牧山城が完成した頃に、六角氏では内乱から勢力が衰え、信長は六角から六角と争っていた北近江の浅井へと乗り換えることになる。

今川の事情

一方の今川方へと目を向ける。
今川義元の尾張侵攻の目的は諸説あるが、今は上洛説はほとんど支持されていないのでこれは省いてもいいだろう。
大勢は鳴海大高の救援、あるいは尾張制圧という感じである。

だが、それだけなら今川義元本人が出陣してこなくてもよかったのではないか。

これまでの義元の行動を見ると、駿府からあまり動かない。
富士川東の地をめぐる河東の乱のような駿河内はともかく、三河尾張方面の動乱は、基本的には太原雪斎や三河衆が動いている。

今川は、足利一門の中では吉良氏の分家ではある。
吉良氏は足利御一門の中でも特に家格が高く、その分家たる今川も足利の名門中の名門だ。
だが、足利義輝と三好長慶の和睦がなった翌年1553年に義元が今川仮名目録に守護使不入を廃止する旨を追加し、足利三好の政権から離脱する意思を示している。

その後、義元は甲斐の武田信玄、相模の北条氏康との甲相駿三国同盟を締結し、三河尾張方面への進出を強めていく。

そんな状況下で信長が六角と結び、上洛したとすれば、大きな危機感を抱いても不思議はない。
さらに六角氏が援軍を送り込んでいるとすれば、ということで自ら出陣したのではないだろうか。


とはいえさすがに上記の解釈は無理もあり

ここまで都合の良い解釈ばかりで進めてきたが、やはりこじつけなところもある。

もっとも無理があるとおもうのは、義元が自ら出陣してきた件だ。
義元が出陣したのは特別な意味があったというより、これまでは状況がそれを許さなかっただけだと考えるほうが自然だろう。

尾張侵攻の時点では甲相駿三国同盟や、息子の氏真に駿河の統治を任せられるようになったことが大きく、さらに以前は代わりに指揮を務めていた太原雪斎が死去していることもあるはずだ。
氏真に家督を譲ったのも、自ら駿府から動くためだろう。

また今川の対尾張戦略が常に陸路と海路の連絡網を意識して丹念に駒を進めていることからしても、やはり尾張侵攻は、織田方の撃退が主目的であったと考えるほうが、こちらも素直なのではないか。


そもそも、すべては今のところ信憑性の高い資料もなく、状況証拠からの推論である前提として話を勧めているために、そこが異なるならあまり意味のない話である。

ただ、織田信長という人は独創性が語られる人物だが、それなりに先行のフォロワーなところも多く、茶の湯などの文化は三好長慶の、楽市楽座は六角定頼の影響を受けているのではないかと想像すると、その原点は頃にあったのではないかと、そんなことを考えるのだ。

 

関係年表 

1547 足利義輝将軍就任
1548 織田信秀と斉藤道三が和睦
1549 六角定頼楽市令
江口合戦
1552 六角定頼、織田信秀死去
足利義輝と三好長慶和睦
1553 今川仮名目録追加守護使不入廃止
1554 甲相駿三国同盟成立
1555 尾張蟹江城今川の勢力下に
1556 斎藤道三敗死
1558 今川義元が氏真に家督を譲る
1559 織田信長、上杉謙信上洛し義輝に謁見
斎藤義龍が義輝の相伴衆に
1560 桶狭間の戦い
野良田合戦
1563 小牧山城築城