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シンプルで合理的な生活

秀吉も家康も尾張徳川家も。日本史の建築を支える木曾の山林

現代の日本では海外から低価格の木材が輸入されることもあって、国内の山林は管理のために伐採はされても、輸送コストから放置されるものもある。
バイオマス発電などこうした木材の利用は考えられているが、あまり森林資源が活用されていないのが現状だ。

しかし人類の歴史上でこうした状況はめずらしいだろう。
もちろん日本でも江戸時代には国内の山はハゲ山だった話題はネットでも数年前からよく語られるように、森林資源は豊富にあったわけではない。
山があればどこでも確保できたわけではなく、大量の木材が必要になると、遠くから運ばなければならないこともある。
以前にも書いたように、今川が愛知県の知多半島に築いた村木砦は、砦の建設のために駿府から海上ルートで木材を運ばせている。

こうした木材の産地のひとつが長野の木曾谷を中心とした木曾地方である。

木曾谷という土地

木曾は古代から交通の要所であり、美濃から信濃に入るルートのひとつでもある。
ここを治めていた木曾義昌が織田方に寝返ったことで、織田信忠の軍が信州へ入ることが容易になり、武田家は滅亡した。
江戸時代には中山道として、現在はJRの中央線がこの地を走っている。

また木曾馬と呼ばれる頑健な馬の産地でもあった。

源平の時代に源義仲がこの地から京へ上り、平氏に変わって短い期間だが中央を支配したのも、なんとなく理解できる土地である。

 

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木曾の遍歴

先に挙げた木曾義昌の裏切りは、武田勝頼の新府城建設による賦役と重税を求められたために不満をつのらせたことが原因のひとつであるとされるが、そのなかに木曾の木材の提供もあったのではないかと推測する人も多い。

武田氏が滅亡した後は木曾義昌はまずは北条氏政へ、そして家康へと鞍替えするが、小牧長久手の戦いでは秀吉に寝返るなど、各勢力を渡り歩くく。
だが秀吉と家康が和睦すると、その後は家康の配下となり、関東へと移封されてしまう。
これにより木曾は秀吉の勢力下へと入ることとなった。

秀吉が天下を握ると、木曾の木材は大坂城聚楽第をはじめ、のちに国家安康でおなじみとなる方広寺の大仏殿など、豊臣政権下の著名な建築物に多く利用される。

秀吉の死後は、関が原の戦いで家康が木曾の地を取り返し、江戸城駿府城の築城に利用される。
江戸時代には御三家の筆頭である尾張藩に木曾と木曾川が与えられ、これにより江戸期を通じて木曾の木材は尾張藩の重要な収入源となった。

式年遷宮の木材として

これまでに挙げたように木曾の木材を利用した著名な建築物は多くあるが、それ以外で有名なところでは、伊勢神宮は外せないだろう。
神宮の式年遷宮用のヒノキは、当初は神宮林の樹木を利用していたが、なにしろ一度に万を超える木材が必要になる。
そのため、三河や美濃、地元の伊勢大杉谷にも木材を求めたが、やがて枯渇し、木曽に頼ることになる。

木材が運ばれるルート

木曾の木材の運搬は、水運がもっとも重要である。
秀吉の時代には、伐採された木材は木曽川を下流へと運ばれ、長良川へと入り、一夜城で有名な墨俣で陸揚げされると、そこからは陸上を通り、琵琶湖でふたたび水運を利用し関西まで運ばれた。

江戸時代になるとさらに長良川から揖斐川の下流にある桑名へと運ばれ、さらに熱田の港へも廻ることになる。
名古屋の城下は材木取引が盛んとなり、木曾谷の森林を実際に統治する代官の山村氏や、木曾川の筏を管理する人々は大きな力を持っていた。

また桑名は当初は家康の重臣中の重臣である本多忠勝の家が、のちに一族の松平の領地となり、尾張徳川家と合わせて徳川幕府が木曾の木材の流通を支配していたのである。

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木曾五木と山林保護

江戸の初期の頃の木曾は需要の増加のために、次第に荒廃した山林が増えていった。
そのため尾張藩は、ヒノキをはじめとして、サワラ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコの勝手な伐採を禁止し、入山も厳しく取り締まるようになる。

これらの樹木は総して木曽五木と呼ばれ、木1本で首ひとつとぶとまで言われる厳しい政策だったが、それでも盗伐による処刑はあとを絶たなかったようだ。
とはいえ、こうした山林の保護の成果により、木曾の森林資源は守られることになる。