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御館の乱で武田勝頼はどう動けばよかったのか?

武田家の滅亡の要因のひとつとして、御館の乱での武田勝頼の判断があげられることが多い。
元々勝頼は上杉景虎側に与していたが、景勝と和睦したことで景虎の敗北へとつながっていく。
そのため景虎の実家である後北条との確執が生じ甲相同盟が破綻。
後に小田徳川と北条とのに方面作戦を強いられることになったというものだ。
なかには経済的に困窮していた勝頼が景勝が差し出した黄金に目がくらんだという話すらある。

では、このとき勝頼はどういう判断をすればよかったのだろうか。

御館の乱の動向

越後を治める上杉謙信は生涯独身で実子がおらず4人の子は全員養子だった。
謙信は後継者を明言しておらず、その死後、彼らのうち謙信の実姉の子上杉景勝と、北条氏政の弟の上杉景虎のふたりが後継者として争うこととなった。

上杉景虎は後北条家の北条氏康の子で氏政の弟という出自である。
謙信と氏康は北関東の覇権をめぐり長年争っていたが、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄し駿河の今川領に進行したことで、北条は上杉と同盟を結び、その際に景虎が謙信の養子に入ることとなる。
上杉と北条の同盟が解消されたあとも、景虎は帰ることなく謙信の元に留まった。

謙信が晩年にどちらを後継者と考えていたかは諸説ありよくわかっていない。
立場的には景勝のほうが有利であっただろうことは想像に難くないが、北条の勢力が背後にあることもあってか、国内の勢力を二分する争いに発展してしまった。


このとき北条氏政は佐竹・宇都宮の連合軍と対峙中であり、同盟中の武田家に援軍を依頼する。
要請に応じた勝頼は2万の大軍を派遣し、自らも出陣する。
これに対して景勝は武田と北条の不信につけ込み、領土の割譲により勝頼に和睦を結ぶことに成功する。

その後、勝頼は景勝景虎両勢力の調停を務めるが、北条の援軍は来ず、三河の徳川家康がこれを機に駿河に侵攻を始めたことで撤退。
そのため景勝と景虎間の争いが再燃し、北条の援軍も秋にずれ込んだ上に冬には撤退し、最終的に景虎が自害して乱は終息した。

IF...

もし勝頼が、景勝からの和睦を受け入れず、景虎に味方したままだったらどうだろうか。
北条との確執は生まれずに済んだかもしれない。

だが、景勝の勢力を駆逐するまでかなりの時間を要するのは確実にもかかわらず、家康が侵攻してくるのに対処しなければならない。
この時代、武田家が北と南の両方面作戦を取るのはかなり厳しい状況だったのは間違いないだろう。
信玄の時代でもなるべく多方面を敵に回すことを避けていたくらいだ。

だとすれば北条が対峙している佐竹との和睦を斡旋し、早く北条の軍勢に越後に来てもらうという手も考えられる。
とはいえ、この時点で武田と佐竹との関係は薄れており、同盟が結ばれるのは北条との同盟が切れてからだ。
そう簡単に事が進むとは思えない。

領地を徳川に侵食されてまで景虎を支援して成功しても、景虎の支配が安定していれば今度は北条の勢力に後背を完全に抑えられることになる。
武田と北条は元々利害が衝突するため、最終的に景虎を助けたところでも、いずれ甲相同盟が破綻する可能性は高い。
また景虎の支配が安定しなければ、景勝のときと同じく越後からの援軍は見込めないこともある。
すぐに後背を北条に脅かされる心配はなくとも、織田徳川の勢力を考えれば、いずれジリ貧となり木曽が裏切った時点で終りとなるのは避けられないだろう。

この時期、徳川に出兵を控えるような事件があればまた違う形もあっただろうが、家康の息子信康の切腹はこの翌年である。
そうなれば勝頼の最善手は景勝と景虎の和睦を永続させることではなかったかとおもうのだが、事実、そんなことは不可能だ。
あとは勝頼本人の切腹か国替え覚悟で全面降伏するしかなかっただろう。

さかのぼってみれば、信長包囲網が効果的だった信玄の代のうちに攻めきれなかったのが最大の敗因だろうか。
信長と敵対した信玄を責める向きもあるのだが、こちらも利害が衝突する間柄であり、信玄にその気はなかったとしても、信長がいずれ矛先を東へ向けてくるのは避けられなかっただろう。
なかなかIFは難しいものである。

武田氏滅亡 (角川選書)