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シンプルで合理的な生活

それからの戦国大名たち。滅亡してからが本番

戦国大名といえば武田勝頼や浅井長政のように、滅亡とともに戦死、あるいは自決してその生涯を終えるイメージがあるかもしれない。
だが、案外、そうでない者も少なくない。
豊臣政権以降になれば臣従する者も多かったが、それ以前の戦国期にも降伏や逃亡で命を生きながらえた者もいる。

むしろ大名家として滅んでからがその人生の本番だったりする者もある。
ここではそうした戦国大名たちから、織田信長とかかわりのあった人たちを取り上げてみたい。

今川氏真 教養を活かして文化人へ

戦国期の暗愚の代名詞的な人物となってしまっている今川氏真だが、すでに父の今川義元の時代から度重なる出兵により国内の不満はかなり高まっていた様子が伺える。
むしろ義元という重しがなくなってしまった桶狭間以後も、駿河と遠江をなんとか保持していたというべきかもしれない。

とはいえ、松平と武田からの侵攻により、ついに滅ぶと、ここから氏真の流浪の人生が始まる。

今川氏真(集外三十六歌仙)

氏真はまずは妻である早川殿の実家である相模の北条の元へ身を寄せるが、北条が武田と講和すると、今度は浜松の松平の元へ行くことになる。
どちらにしても駿河の元国主だった氏真を保護することは、支配の正当性を得るためのよい道具でもあった。

この頃の氏真は主に外交活動を担っていたようで、彼の発行した書状がいくつも残っている。
例の信長の前で蹴鞠を披露したエピソード以外にも、長篠の戦いでは後詰めとして従軍したり、1年ほど牧野城の城主を務めてもいた。
さらにその後は京都に移り、教養人として公家と交流しつつ、秀吉や家康と京都の折衝役も担っていた。

甲相駿三国同盟で結婚した早川殿との関係は良好だったのだろう。
三国同盟での他の2組とは異なり、彼女は氏真と別れることなく、行動をずっとともにしたようだ。
晩年は江戸に移り、長年連れ添った早川殿を看取った2年後、氏真はこの世を去ることになる。

斎藤龍興 反信長勢力の傭兵隊長

酒色に溺れたと言われているが、なにしろ跡を継いだときは14歳である。
敗軍の将とはいえずいぶんと悪く言われてしまうのは、やはり稲葉山城を竹中重治や安藤守就に奪われた事件が大きく影響しているのだろう。
美濃では祖父の道三の代から家臣の流出が続いており、彼もまた今川氏真と同じく、むしろ当時の信長の侵攻に対して10代ながら6年間も美濃を守り通したと評してもよいのかもしれない。

Saitō Tatsuoki

稲葉山城の落城し斎藤家(あるいは斎藤一色家)が滅亡すると、龍興は長良川を船で下って伊勢の長島へと逃亡した。
だが、そこから6年間に渡り、彼は傭兵のように三好や朝倉へと渡り歩き、信長への抵抗を続けるのである。

キリスト教に関心が高く、畿内に滞在していたときの宣教師による彼のエピソードがいくつか残されている。
キリスト教の宗旨や世界の創造を書き留めると、次に来たときには一字一句反復することが出来たとか、「人間が祝福された万物の霊長であるならば、なぜこの世から不幸や戦乱がなくならないのか」などと問いかけもしたという。
ルイス・フロイスは「有能で思慮深い」と評すなど、そこからは美濃を主だった頃とはかなり異なる彼のイメージが浮かび上がる。

最後は朝倉氏の元で客将として扱われたというが、刀根坂の戦いで戦死する。
美濃の国主として約6年、美濃を追われて戦死までも約6年。
信長と戦い続けた人生だった。

斯波義銀 名門の血の利用価値

尾張と言えば織田だが、織田家は守護代であり守護は足利の名門の斯波家になる。
斯波家は戦国大名というよりは、もう一歩で戦国大名になりそこねた守護という存在だろうか。
一時は越前、遠江に尾張の3カ国の守護を世襲していた斯波武衛家だが、応仁の乱の後は次第に勢力は衰退し、越前は朝倉、遠江は今川の支配下に置かれてしまう。

斯波義銀の時代には尾張一国を残すのみとなり、信長の庇護下にあって形式だけの尾張の守護となっていた。
だが、同じ足利氏の名門である三河の吉良と席次を巡って争うなど、斯波武衛家の当主としてのプライドは高かったようだ。
そんなこともあってか信長に対して次第に反発を強め、今川の軍勢を引き入れようと画策していたが、計画が発覚。
守護を追放され、ここに斯波氏は最後の尾張の地も失い、大名としては滅亡した。

斯波義銀

その後は、キリシタンに改宗した信長と和解し名を津川義近と改め、娘を信長の甥に嫁がせるなど、落ちぶれても名門斯波武衛家の名は大いに利用されたようだ。
小牧・長久手の戦いでは織田信雄の家臣として秀吉と戦ったが、降伏して臣下となり秀吉の御伽衆に加えられた。

本来ならばこれでめでたしめでたし、となるべきところだが、義銀の身にはさらに騒動が降りかかる。
小田原城攻めで北条氏直の赦免を願い出たことで秀吉の怒りを買って失脚した挙句、聚楽第の壁に書かれた秀吉批判の落書きの犯人ではないかと疑われ、一時捕縛される目にもあっている。

その出自を利用された人生ではあるが、晩年も波乱万丈の人生だった。

六角承禎 甲賀の地でゲリラ戦

南近江の守護大名の六角氏は、六角頼貞の時代になると観音寺城を拠点に勢力を広げ、浅井家を従属させ、伊賀にもその影響力を及びすほどとなる。
その子の六角承禎も、足利義輝を支持しつつ三好長慶と争い、ときに手を結ぶなど、義輝の後援者として奮闘した。

しかし浅井との戦いで敗北してより、その勢力に陰りがみえはじめる。
そして足利義昭が織田信長の後援を受けて上洛を目指すと、三好側と手を組みこれを阻止せんと立ちはだかるも、織田方の攻勢に居城の観音寺城は陥落し名門六角氏は滅亡....

Rokkaku Shōtei

とは単純にならなかった。
その後、嫡男の義治とともに甲賀へと退き、抵抗を続けることになる。
これは祖父の六角高頼が足利義尚に親征を受けたときに習ってのことであると言われている。

甲賀は山がちであり、国人たちの独立志向も強い土地柄だった。
さらには不仲だった浅井とも手を組み、信長包囲網の一勢力としてゲリラ戦を繰り広げる。
織田の重臣である柴田勝家や佐久間信盛らを圧迫し、一時は和平に持ち込まざるをえないほど、織田家を苦しめた。

とはいえ、さすがに戦国大名としての六角氏の命運は絶たれていたのだろう。
南近江の大名として復活することはなく、浅井朝倉が滅ぼされると、甲賀の北の拠点も織田方の次々に落とされ、さらに南の信楽へと逃げることになる。

その後しばらく承禎の足どりはよくわからないが、天正9年にキリシタンの洗礼を受け、最後は秀吉の御伽衆となりその生涯を終えた。

 

この他にも大名ではなく将軍だが、室町幕府最後の将軍足利義昭の京都追放以降、滅亡したわけではないが息子に甲斐の国を追われた武田信虎のその後の歩みもなかなか面白いものがある。